真面目ブログ

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自由な発想ってなんやねんという話

全くの無の状態から何かを発想する事は不可能だ。少なくとも俺にはムリです。ムリぽよ。

人間がなにか発想するとき、自分では全くの無から何かを発想したつもりでも、その発想に至るまでの思考は、思考する人が持つそれまでの体験・知識・記憶が基盤となっている。
思考は、大なり小なり思考の元になる基盤があることを前提とする。と思う。多分。


ある概念について、新しい発想をしようと試みるとする。
俺はゲームを作るのが好きなので、分かりやすく、例えばシューティングゲームに新しい要素をつける時のことを考えてみる。

思考の基盤になるのは、そのまんまシューティングゲームだとしよう。
シューティングゲームという基盤の概念。これを分析し、
別の視点を与えてみたり、別の概念と組み合わせてみたりすることで、新しいアイデアが生まれるとする。そこに至るまで試行錯誤が、新しい発想までの思考だ。

簡単に言えばアドベンチャーゲームとシューティングくっつけてアドベンチャーシューティングとかどうよ?みたいな考えに至るまでの流れや、基盤がもつ要素を分析して、別の組み立て方をしてみるということだ。(ブロック崩しのルール逆にしてブロック崩さないゲームとかどうよ?みたいなね、ヘッヘ)

その、とっかかりになる概念・視点を見つける事、これが発想だ。
「アドベンチャーシューティング」で言えば、「アドベンチャーゲーム」という概念を発見した時が発想の瞬間になる。
発想とは、基盤の概念を元に、別の概念、視点を発見することだ。


では自由な発想とはどういうことか。
ビシっとした表現が浮かばないのでぼやっと言うと、別の概念、視点を見つける時に、同じ所ばっかり探すなということ。なんじゃね
シューティングゲーム」という基盤から発想をする際に、「シューティングゲーム」の近くにある概念ばっかりを探していては、自由な発想とは言えない。
なにか発想をする際に、ある特定の概念から思考が離れることができない。そういうのを自由な発想ではない、とする。
さっきの「アドベンチャーシューティング」という例も、結局「ゲーム」という大きな概念からは外れてはいない。

その思考の垣根を超えるのが自由さで、「ゲーム」から全然離れて、「うどん」という概念を見つけちゃって「うどんシューティングゲーム」が出来ちゃってもアリだろうが。

要するに、特定の概念・視点にこだわらず、どっからでも概念を発見する事ができる。これが自由な発想だと思う。
それは全くのゼロの状態から何かを生み出す行為ではない。
概念を見つけるということ、発想というのは、自分自身の記憶・知識・体験の中から、何かに焦点を当てていくことで実現するものだ。

発想が自由だからといってそれが優れているわけでもなんでもない。
なんでもかんでも概念やら視点やら発見して、やっちまえば良いというワケではない。
自由な発想とは、言い変えればただの視野の広さで、これでもっておもしろいもの・有用なものを見つけれるかどうかの方が重要だ。
基盤である概念とうま~くマッチする概念を見つけることが大切で、その助けになるのが、知識と、自分の感覚、そして物事に対する洞察だ。
シューティングゲーム」が与える体験に、新たな概念・視点を加えることで、体験を更に楽しく、倍増させるようなものを見つけることが、良い発想だと考えている。
そういう優れた発想をするために、知識や、自分自身の感覚を使ってマトを絞りながら、新たな概念やら視点を探すのが、良い発想、アイデアを生むための条件だ。と思うぜ。多分。
「うどんシューティング」がおもしろいかどうかは分かりません。でも多分おもしろいかもしれない。主に語感が。


説明が分かりやすいために「シューティングゲーム」とか「うどん」とか言ってるが 実際自分が何かを作る際に発見する概念は、もっとボヤっとした「体験」とか「感覚」だ。
ゲームを作る時は、「ゲーム」という考えの基盤を元に、別にゲームに限らずに「あの時のあれが面白かったな」みたいなボンヤリしたものを、くっつけて形にする。
もっと言えば「あの時のあれが面白かった」の、「あの時のあれ」の、「何」がそんなに面白かったのかを考えて、そのおもしろい部分を考えて考えて抽出した物をゲームにする。
っていうのが、俺のゲームの作り方。
っていうか
そうなったらいいなっていうか、
まあ長くなるんで今書くのはやめます。

というわけで、自由な発想という言葉についてバカなりに考えて、拙い文章でっちあげました。

以上です。終わりです。終わり終わりーーーー!!!!帰れーーーーー!!!!!